はじめに:なぜ「FD(Financial Disclosures)」なのか
近年、企業のサステナビリティ開示は大きく進化しています。
気候変動を扱うTCFD(Task Force on Climate-related Financial Disclosures)、自然資本を扱うTNFD(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures)、そして2026年にBeta Version 0.1が公表されたTISFD(Taskforce on Inequality and Social-related Financial Disclosures)。
それぞれテーマは異なりますが、共通しているのは「FD(Financial Disclosures)」であることです。
つまり、これらのフレームワークは単なるサステナビリティ情報開示のためのフレームワークではありません。
企業が直面する環境・社会課題が、
- 将来のキャッシュフロー
- 収益性
- 資本コスト
- 事業継続性
- 長期的な企業価値
にどのような影響を与えるのかを理解し、投資家との対話につなげることを目的としています。
TCFDでは気候変動リスクが企業財務へ与える影響が論点となりました。
TNFDでは自然資本への依存や影響が、事業継続性や企業価値との関係で議論されています。
そしてTISFDが注目するのは「人」と「社会」です。
企業は従業員、サプライチェーンの労働者、顧客、地域社会といった多様なステークホルダーに依存しています。
同時に企業活動は、賃金、雇用、人権、格差といった社会課題にも影響を与えています。
TISFDはこうした関係性をCSRや社会貢献活動の文脈だけで捉えるのではなく、、
「企業価値を支える人的資本・社会資本への依存関係」
として整理し、その結果として生じるリスクと機会を理解することを目指しています。
実際、TISFD ベータ版では、生活賃金を下回る賃金水準が所得格差を拡大させ、それが社会全体の需要や安定性に影響し、最終的には投資家ポートフォリオ全体にも影響を与える可能性について言及されています。
つまりTISFDは、
「社会課題への対応を開示するフレームワーク」
ではなく、
「社会課題(非財務)の側面における企業価値(財務)のレジリエンスを理解するためのフレームワーク」
とも捉えることができます。
その意味で、TISFDへの対応は開示プロジェクトというよりも、人権DDなどの不平等・社会課題への取り組みを通じてレジリエンス向上および長期的な価値創造を効果的かつ実効的に行うために「データ基盤整理」が重要になると考えられます。
TISFDとは何か
TISFD(Taskforce on Inequality and Social-related Financial Disclosures)は、企業や金融機関が人々への影響や依存関係、それらがもたらすリスク・機会について理解し、開示するためのフレームワークです。
特徴的なのは、
- Impacts(影響)
- Dependencies(依存)
- Risks(リスク)
- Opportunities(機会)
という4つの視点から、人と企業との関係性を捉えている点です。
また、TCFD・TNFD・ISSBと同様に、
- Governance
- Strategy
- Impact & Risk Management
- Metrics & Targets
の4本の柱からなる構造を採用しています。
ただしBeta Version 0.1では、具体的なMetrics & Targetsはまだ策定されておらず、今後の開発項目とされています。
なぜTISFDは「不平等」に注目するのか
TISFDの特徴は、「Social(社会)」だけでなく、「Inequality(不平等)」を明示的に扱っている点にあります。
従来の人的資本開示や人権デューデリジェンスでは、個別企業の従業員やサプライチェーンにおける課題が中心でした。
一方でTISFDは、それらの課題が社会全体の不平等とどのようにつながっているのかにも着目しています。
例えば、
- 生活賃金を下回る賃金水準
- 雇用機会へのアクセス格差
- 教育やスキル開発機会の偏在
- 金融サービスへのアクセス格差
といった問題は、個別企業だけの問題ではありません。
こうした不平等が拡大すると、
- 労働市場の不安定化
- 消費の停滞
- 社会的分断
- 政治・規制リスクの増加
につながる可能性があります。
TISFDでは、このような不平等が社会や経済システム全体へ影響を与え、結果として企業や投資家にも跳ね返る可能性があると考えています。
そのためTISFDは、企業単位のリスクだけでなく、ポートフォリオ全体や社会システム全体に影響を及ぼす「システムレベルのリスク(System-level Risk)」にも注目しています。
これはTCFDが気候変動をシステミックリスクとして捉えたことと似た発想と言えるかもしれません。
TISFDが見ている4つのステークホルダー
TISFDでは、人との関係性を以下の4つの対象で整理しています。
① 自社従業員(Own Workforce)
企業が直接雇用する従業員や派遣社員など。
② バリューチェーン労働者(Workers in the Value Chain)
サプライヤーや委託先など、自社の価値創造を支える労働者。
③ 消費者・利用者(Consumers and End-users)
製品・サービスを利用する顧客。
④ 地域社会(Affected Communities)
事業活動の影響を受ける地域住民やコミュニティ。
TISFDは、これらのステークホルダーに対する企業の影響と依存関係を理解することを求めています。
TISFD ベータ版が示す「影響のドライバー」
Beta Version 0.1で特に興味深いのが、「Drivers of Impacts(影響のドライバー)」という考え方です。
TISFDは、
「どのような企業活動が人々への影響を生み出しているのか」
を整理しています。
これは将来の指標設計や分析設計の出発点になる考え方です。
1. 自社オペレーションにおける要因
企業が直接コントロールできる領域としては以下のとおりです。
- 採用、昇進、解雇
- 賃金、報酬、福利厚生
- 労働条件と組織文化
- トレーニングとスキル開発
- テクノロジーとデータの利用(AIによる人事評価やシフト配置など)
- 土地・資源利用や事業拠点(天然資源の採掘、土地の取得・利用など)
- フィランソロピー・地域投資
- ステークホルダーエンゲージメント
TISFD Beta版が示す具体的なインパクトドライバー(例示)
- AIによる人事評価やシフト配置
- 天然資源の採掘、土地の取得・利用
例えば人的資本開示で扱われる離職率や研修時間は、この領域に位置付けられます。
2. バリューチェーンにおける要因
企業の取引関係や製品・サービスを通じた影響は以下のとおりです。
- 調達とビジネス関係
- 資本配分・ストラクチャリング
- スチュワードシップとエンゲージメント
- マーケティングと表示
- 製品設計・開発
- 研究開発
- 販売と価格設定
- ステークホルダーエンゲージメント
TISFD Beta版が示す具体的なインパクトドライバー(例示)
- ビジネスパートナーへの技術支援
- 生活必需品等における、差別的、格差のある、または搾取的な価格設定
特に「資本配分」や「価格設定」が含まれている点は、従来の人的資本開示との大きな違いと言えるでしょう。
3. 社会における要因
企業が社会制度や市場全体へ与える影響は以下のとおりです。
- 税金支払いと補助金
- ロビー活動・政策提言
- 贈収賄・汚職
- 反競争的行為
TISFD Beta版が示す具体的なインパクトドライバー(例示)
- 攻撃的な租税回避(タックス・アボイダンス)
- 業界団体等を通じた間接的な政策提言
- 公的資金の不正流用への関与
- 不公正な取引慣行
TISFDは、企業活動が社会全体の不平等や機会格差へ与える影響にも着目しています。
TISFD対応の出発点は「データ基盤」
一方でTISFDは、ISSB、GRI、ESRSなどの既存フレームワークとの相互運用性(Interoperability)を重視しており、今後の指標開発においても既存の開示基準との整合を図る方向性を示しています。
そのため、TISFD対応はまったく新しい取り組みというよりも、人的資本開示、人権デューデリジェンス、サステナビリティ開示基準(SSBJを含む)など、既に企業が進めている取り組みの延長線上にあると考えることができます。
TISFDが目指しているのは、社会関連情報を開示するだけではなく、人や社会との関係性を理解し、それがもたらすリスクや機会を経営判断へ反映することです。その結果として、組織のレジリエンス向上や長期的な価値創造につなげることが期待されています。
TISFDは今後の開発テーマとして、企業や金融機関が人や社会に関する情報をどのように収集・統合・活用しているのかを分析し、「社会関連データ基盤(Social Data Infrastructure)」の整備に関するガイダンスを検討するとしています。
ここでいう社会関連データ基盤とは、人事データ、人権データ、サプライチェーンデータ、地域社会に関するデータなどを収集・統合し、開示や経営判断に活用するための仕組みを指します。
つまり企業に求められているのは、
「離職率を開示すること」
ではなく、
「離職率を継続的かつ分析可能な形で管理すること」
です。
同様に、
「男女賃金格差を公表すること」
ではなく、
「格差の変化を継続的に測定し、経営判断に活用できること」
が重要になります。
将来的にTISFDの指標や開示要件が具体化されたとしても、その基盤となるのは、社会関連データを継続的に収集・管理・活用できる仕組みです。レジリエンス向上や価値創造を支える土台として、データ基盤の重要性は今後さらに高まっていくと考えられます。
その意味で、現在進められている人的資本開示やSSBJ対応は、将来のTISFD対応に向けた第一歩とも言えるでしょう。
社会関連データ基盤の整備とTERRAST
ここまで見てきたように、TISFD Beta Version 0.1は現時点で具体的な指標を提示しているわけではありません。
むしろ企業に求めているのは、
「人や社会に関する情報を継続的に収集・統合し、意思決定に活用できる状態」
です。
実際、TISFDは今後の開発テーマとして「社会関連データ基盤(Social Data Infrastructure)」の整備を挙げています。これは、人事データ、人権データ、サプライチェーンデータ、地域社会に関するデータなどを収集・管理・活用するための仕組みを指します。
TISFDへの対応を考える上で重要なのは、データを収集すること自体ではなく、それらをリスク管理や経営判断、価値創造につなげられる状態にすることです。その前提として、人事、人権、サプライチェーン、地域社会などに関する情報を継続的に蓄積・管理できる仕組みが求められます。
サステナブル・ラボでは、企業の非財務情報を構造化・管理するためのデータプラットフォーム「TERRAST(https://www.terrast.biz/)」を提供しています。
TERRASTは、企業が開示するESG・サステナビリティ情報を比較するデータベースとしての機能に加え、人的資本、人権、サプライチェーン、ガバナンスなどの情報を体系的に整理し、企業間比較や時系列分析に活用できる基盤です。
今後、TISFDの議論が具体化し、社会関連情報の開示が広がっていけば、TCFDやTNFDと同様に、企業間で比較可能なデータとして整理・活用するニーズも高まっていくと考えられます。
例えば、人的資本や人権デューデリジェンスに関する情報について、
- 自社の開示状況を同業他社と比較する
- 業種別・地域別に重要な社会関連指標を把握する
- 投資家や金融機関が企業の社会関連リスクを比較分析する
- コンサルティングやアドバイザリーの現場でベンチマークとして活用する
といった利用が想定されます。
また、TISFD対応は外部開示だけで完結するものではありません。
人事部門、人権担当部門、調達部門、サステナビリティ部門などに分散しているデータを一元的に管理し、どのデータが、どの施策やリスク管理プロセスと結び付いているのかを説明できる状態にすることが重要です。
特に、人権デューデリジェンスやサプライチェーン管理では、Excelや個別部門の管理表に情報が分散しているケースも少なくありません。こうしたデータを統合的に管理することで、リスクの把握、是正措置の進捗管理、苦情処理メカニズムの運用状況などを継続的に確認しやすくなります。
さらに、TCFDやTNFDの流れを踏まえると、将来的にはTISFD関連情報についても第三者保証や監査対応が論点になる可能性があります。
その際には、単に数値を開示するだけでなく、
「どのデータを、誰が、どのようなプロセスで収集・確認し、どのように開示へ反映したのか」
を説明できる管理体制が重要になります。
TISFDの最終フレームワークはまだ策定途中です。しかし、企業が将来的な開示、分析、保証対応に備えるためには、今の段階から社会関連データを継続的に蓄積・管理できる仕組みを整えておくことが有効です。
CSRD/SSBJ対応ソリューション「TERRAST powered by uniqus(https://www.terrast.biz/csrd-ssbj-compliance)」は、こうした社会関連データ基盤の整備を支える選択肢の一つとして、企業の非財務情報の可視化、比較、内部管理、そして将来的な財務・非財務統合分析への活用を目指しています。
TERRASTで管理できるデータとの関係
TISFDが将来的に求める情報の多くは、すでに企業が開示している非財務情報と重なります。
TERRASTでは、こうした人的資本・人権・サプライチェーン・ガバナンスに関する開示情報を構造化して管理しており、将来的なTISFD対応に向けたデータ基盤として活用できる可能性があります。
例えば、TERRASTで管理・分析可能な情報として以下のような項目があります。
人的資本
- 女性管理職比率
- 男女賃金格差
- 離職率
- 研修時間
- 労働災害率
人権
- 人権方針
- 人権デューデリジェンス
- 苦情処理制度
サプライチェーン
- サプライヤー監査
- 人権評価
- CSR調達方針
ガバナンス
- 取締役会多様性
- ESG委員会
- リスク管理体制
こうした情報は、将来的なTISFD対応の基礎となる可能性があります。
重要なのは、個別の開示項目として管理するのではなく、
「どの企業活動が人々へどのような影響を与えているのか」
という文脈で整理できる状態にすることです。
おわりに
TISFD Beta Version 0.1は、現時点では指標集ではありません。
むしろ、
「企業は人と社会との関係をどのように理解し、どのようなデータを蓄積すべきか」
という方向性を示したフレームワークです。
気候変動におけるTCFD、自然資本におけるTNFDと同様に、今後数年でTISFDは急速に具体化していくことが予想されます。
企業にとって重要なのは、開示要件が確定してから対応を始めることではなく、人と社会に関するデータを継続的に収集・管理できる基盤を整備することです。
そして、その先にはもう一つの問いがあります。
「これらのデータは、本当に企業価値と関係しているのか?」
次回の記事では、TISFDが問題提起する「不平等・社会課題」と企業価値との関係について、財務・非財務データ分析の観点から考察します。




